佐賀県にかつて存在していた城郭で最も大きいのが、
肥前名護屋城です。

豊臣秀吉が、朝鮮出兵の前線基地として築いたお城として知られています。

廃城となって400年以上経ちますが、広大なエリアに多くの石垣が残っていて、
いかに巨大な城郭だったかを彷彿とさせます。

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ここは、大手門へと続く入り口前にある広場です。

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石垣がある辺りが、メインゲートである大手門があったとされる場所です。

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崩れてはいますが、かなりの規模の石垣があったようです。

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石をよく見ると、このような窪みが並んでいるのが分かります。
これは、石を割った時の楔のあとです。

割りたい線に沿って楕円形にくり抜き、そこに2つに分かれた金属をはめ込み、
その間に先のとがった三角形の金属をあてがい、
ハンマーを振り落としてひびを作っていって、最後にパカッと2つに割れるのでしょう。

結構面倒な作業ですが、これを延々と繰り返して、
大きな石から石垣の石を何万個も切り出して行ったかと思うと、
一つの城を立てるのがいかに大変だった事か。

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石の積み方は、戦国末期の城によく見られる石をそのまま積んでいく、
野面積みからやや形を整えて積んでいく、打ち込みハギの中間くらい?
の積み方です。

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城内には、こんな石がゴロゴロ転がっています。

廃城になった時に石垣が破壊されたと言われているので、
あちこちに転がっているのかもしれません。

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城内は広大なので、こんな案内板があちこちに設置してあります。

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木々が生い茂っていますが、この辺りが三の丸があった所です。

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図で見るとこのようになっています。
三の丸だけでもかなりの広さがあります。

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三の丸の説明版です。
今でも発掘調査が行われていて、その調査報告もされています。

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隅の方には、櫓が建っていた石垣があちこちに残っています。

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半分崩落してる石垣が多いですが、
近くで見ると石垣の積み方がよく分かったりして興味深いです。

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ここは、本丸への入り口である本丸大手という場所です。

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説明板によると、門や櫓が建っていたようです。

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この石段を登ると本丸です。





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ここが本丸です。

当時最大級のお城だっただけあって、
並の城とは比べ物にならない広さを誇っています。

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本丸の説明と調査報告の説明板です。。

ここに茶室があり秀吉が、度々茶会を開いていたらしいです。

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本丸には、多門櫓という横に長い櫓があったようです。


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これが多門櫓の説明と発掘調査の報告です。


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人がいる場所が、天守が建っていた場所です。
天守台の広さから、かなり大きな天守が建っていた事が想像できます。

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天守台から下の遊撃丸を見たところです。
ご覧のようにかなりの高さがあります。

向こうの水面は、軍船で埋め尽くされていたのでしょうか。
つい想像をめぐらせてしまいます。

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遊撃丸とは、明の講和使節(遊撃将軍)が滞在したことからそう呼ばれるようです。

明からそんな使節がここに来ていた事とは驚きですが、
一体どんな条件で講和が結ばれたのでしょうか。

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天守台から見た本丸です。

サッカーグランドかと思うほどの広さです。

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名護屋城周辺には、全国から集結した大名の陣屋があります。
これは、ここから見た陣屋の位置を示しています。


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天守台には、小石が敷き詰めてあり間に礎石が並んでいるのが確認できます。

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天守台の端は、このように急になっています。
この面の石垣は崩落しているようです。

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現在石垣の修理が進められていて、このような計画図が設置してありました。

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ここの櫓の石垣は、割とよく残っています。

この部分は、大きさはまちまちですが石の角を揃えた、
切り込みハギに近い積み方となっています。

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柵で囲んであるこの個所は、おそらく井戸ではないかと思われます。

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下から見た天守台です。

石垣の大部分は、崩落しています。

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これも、櫓が建っていた所の石垣です。
ここは、野面積みとなっています。

場所によって石垣の積み方が違うのは、
担当した石工ごとにやり方や技術の差があったと言う事でしょうか。

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ここは、近年の調査で発見された長屋建物跡です。

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説明板によると、長さ約20m、幅約5mの長屋が2棟建っていたと言う事です。

この建物は、築城時の仮設建物の可能性があるようですね。

今で言う現場のプレハブ事務所と休憩所のようなものでしょうか。

何しろ築城時には、全国から数万人が集められて突貫工事が行われたので、
こんな長屋がいくつも建っていたのかもしれません。

しかしこんな大規模な城を、わずか数カ月で築城したとは驚きです。

ここは、天守閣も櫓も残って無い廃城ですが、それだけに想像力を掻き立てられます。
歴史のロマンを感じると共に、儚さと海を隔てた向こう側で行われていた事を思い、
複雑な心境にもなる・・そんな城跡です。

まさに秀吉の”なにわのことも夢のまた夢”と言った心境でしょうか。