SAGA佐賀マニア~佐賀のマニアックな情報発掘

佐賀の歴史スポットや気になるお店、街歩きネタを発信しています。

街歩きをしていると、
時折ディープスポットに遭遇するものですが、

今回は、まさかここにあるとは!

と言う場所に、ディープスポットがありました。
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場所は、佐賀駅から南に延びる大通りからちょっと入った辺りと言う、
かなり開発が進んだような場所です。

佐賀駅の南と言えば、ホテルの廃墟と言うディープスポットが、
2023年1月現在まだ存在しているのですが、

それ以上のディープスポットが残っているとは思っていませんでした。
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近くには、昭和の雰囲気を色濃く残す店舗の建物があります。
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複数の飲み屋や飲食店が入った建物です。
なんとなくここが気になったから見に行ってみたのですが、
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その先に古い家屋がある一角がありました。
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昭和初期かそれ以前からあるような家です。
もちろん空き家だと思います。
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その隣にはシャッターが下りた家屋があり、
シャッターには”伊東米店”と書いてあるようです。
電話番号は、かなり昔の番号だと思われます。

ご覧のように、二階が崩壊しかけています。
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その隣にも空き家があります。
住人が居なくなってからかなりの年月が経っているようです。
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正面から見ると、屋根が垂れ下がっていて、
近い内に崩れそうです。
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裏に回ってみました。
右側の屋根が崩れてきています。
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この子供用のブランコで、
幼い兄弟姉妹が遊んでいたのでしょうか。
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自動車のサスペンションのスプリングのような物の側には、
中学生が自転車通学で被るヘルメットが転がっています。

ブランコで遊んでいた子供が中学生になり、
あのヘルメットを被って通学していたのでしょうか。

家の中にも家財道具が放置されたまま、
住人はいなくなっているようです。
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これは先ほどの”伊東米店”の側面です。
屋根の一部と壁の大部分が無くなっています。
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この家の裏には、大きなボイラーのようなものがあります。
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家の中は複数の小さな個室に分かれていて、
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どの部屋も下半分がタイル張りになっていて、
ほとんどが壊れていますが、小さな浴槽が付いています。
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つまり浴室だったようです。
あのボイラーでお湯を沸かしていたのでしょう。
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この建物は、元々旅館だったのでしょうか。
その後米店となったのか?
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ボイラーの奥には、こんな鉄の階段があり、
二階に上がれるようになっていました。

ここは使われなくなってから、
数十年は経っていると思われます。

佐賀駅の近くにこんな超ディープな一角が残っているとは、
驚きました。

おそらくそう遠くない時期に取り壊され、
新しいビルなどが建てられるのかもしれません。

その前に出会えて幸運?でした。

佐賀市内の柳町、長崎街道からちょっとそれた所に、
ディープスポットがありました。
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この路地の奥です。
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何やら古そうな建物がチラッと見えたので、
奥に行ってみると、昭和のアパートがありました。
松原荘という廃アパートです。

○○荘という名称のアパートは、
もうあまり残っていません。

このアパートは、ご覧のように一部崩壊しかけています。
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アパートの奥の建物のドアには、
いくつかのステッカーが貼ってあり、

濡れてヨレヨレになった、
佐賀市の広報誌が突っ込まれていました。
この家ももちろん無人です。
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このアパート、住人が居なくなってからどれ位経っているのか?
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住人がいなくなった建物は、
急速に劣化が進むものですが、

屋根がここまで崩れている所を見ると、
20年以上?は、経っているかもしれません。
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アパートの向かい側右の建物も、
一見空き家のようですが、
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どうもまだ住人が住んでいるような気配があります。

この辺りには、古い家屋が割と残っていますが、
ここまでディープな場所があるとは、
気が付きませんでした。

このアパートは、
いつまでここに存在し続けるかわかりませんが、

消え去る前に記録として残せたのは幸いです。


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佐賀の映画館跡を巡るシリーズ、
今回は武雄の映画館跡に行ってきました。

武雄には、

武雄日活銀映劇場・武雄大洋・富士館・武雄東映
(いずれも最後の名称)
の4館の映画館があったようです。
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武雄温泉駅は、
ご存じのように9月より西九州新幹線が開通したので、
ついでに新幹線ホームまで入場券で入って、
どんなものか見てみる事にします。
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ちょうど新幹線が停車していました。
手前には、ホームドアがあります。

さすが新幹線だけに、
車内も先進的な造りになっています。
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この後発車していきましたが、
やっぱり実物を見ると、ちょっと乗ってみたくなります。
これが佐賀駅経由で新鳥栖まで繋がる日が来るのでしょうか。
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しかし武雄駅とその周辺は、
再開発が進んで以前の面影がまったくありません。
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道路が拡張されて、多くの店舗が無くなっているようです。
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このファミリーマートは、景観を意識した?建物になっています。
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昔から続いていそうな店舗も残ってはいます。
甘党の店三喜堂
おはぎ、ふみ餅、回転焼です。

こんなのが割と好きなのでちょっと気になりました。

武雄日活銀映劇場はこの近くにあったようです。
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この建物付近にある駐車場のようです。
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おそらくここではないかと思われます。
全く痕跡は残っていません。

武雄日活銀映劇場は、
1970年以後1973年以前に閉館しているとの事です。
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その先のヤマハ音楽教室の隣のビルが、
武雄大洋だったと思われる場所です。
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現在は、雑居ビルになっています。
武雄大洋は、1995年以後1998年以前に閉館と、
比較的最近まで存在していたようです。
と言っても、閉館して25年ほど経ってはいますが。
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次に残りの2館の跡地へ向かいます。
ここからすぐ近くにあるはずです。
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この通り沿いにある旅館の側の駐車場らしいです。
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途中に小さな神社があったので、
何気に立ち寄って見ると、
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神社の由来の説明の右側に、
懐かしの武雄のまちなみという地図が載っています。
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なんと昭和39年の地図です。
という事は映画館も存在していた頃なので、
確認してみました。
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武雄日活(1)
すると、ちゃんと載ってました。
武雄日活と武雄大洋です。

武雄日活の隣は、今も営業している”橋口米屋”があります。
武雄大洋の隣は、佐賀銀行があったようです。
富士館
こちらには、これから訪ねる富士館と武雄東映が載っています。
何気に立ち寄った小さな神社で、
思いがけなく場所が判明する事になりました。
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場所が分かったところで、確認に向かいます。
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この京都屋の駐車場が、富士館があった場所です。
痕跡はまったくありません。
富士館は、例によって1966年以前に閉館となっています。
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その隣にあるコンクリートの建物は、
かなり古そうです。
ここが地図にある歯科医院だったのでしょうか。
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その隣の駐車場が、武雄東映跡です。
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かなり広い駐車場ですが、
映画館はどれくらいの大きさっだのか?
武雄東映は1969年以前に閉館となっているようです。
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駐車場の向かいの家は、
映画館があった頃から存在していたことでしょう。
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この辺りは、旧長崎街道のルートとなっていたようなので、
ちょっと散策してみます。

鍵型道路と言って、わざと曲がり角を作っています。
佐賀宿の鋸型と同じく攻め手の勢いを削ぐ目的のようです。
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この辺は、なんとなく往時の面影が残っているようです。
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しかし閉店している店舗も多く見られます。
ここは何の店舗だったのか?
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ここも大分前に閉店しているようです。
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ここも閉店している商店かと思ったら、
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板金屋だったようです。
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ここは色が落ちて、アートのようになっています。
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歓楽街へ出てきました。
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いわゆる風俗店の看板がいくつか見られます。
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武雄で一番有名な楼門です。
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ここには温泉もあり、観光客がかなり多く訪れていました。
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所々に長崎街道の説明板が設置してありました。
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宮本武蔵が使ったと言う井戸があるようです。
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この辺りは、景観を意識した通りになっています。
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ここはイベントなどをやるための広場でしょうか。
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明治期のポストを模したレトロポストです。
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この辺りも街道の雰囲気が残っています。
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曲がり角に説明板がありました。
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ここも鍵型道路でした。
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その先には、昭和の家屋が割と残っているようです。
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更にその先に進むと、
再開発された地区の広い道路と繋がっていました。

楼門付近は、
思ったより観光客が多く賑わいを見せていましたが、

そこを離れると、
ちょっと寂しい雰囲気なのは否めませんでした。

それでも駅とその周辺の激変ぶりには驚きました。
やはり新幹線が来ると、
急速に街は変わって来るのかもしれません。



吉野ヶ里歴史公園の一角で、新たに発掘が始まって、
一般公開もされているという事なので、

どんな様子なのか、見学に行ってきました。

実は古代史に興味があったりするので、
ここには年に2回ほど訪れていて、
トータル30回以上にはなると思います。
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吉野ヶ里歴史公園の裏口?にあたる、
西口ゲートから入りました。

入場料は、大人460円となっています。
西口にも駐車場があり、
普通車(軽も)310円となっています。

神崎駅から歩いて来ることも出来ますが、
20分くらいはかかります。
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西口から入ると、広い広場となっています。
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ここは遺跡エリアではなく、イベントが行われたり、05
ファミリーバーべーキューやデイキャンプがやれるようになっています。
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この広場を通り抜けると、
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発掘現場があります。

一般開放されていて、発掘現場を見学できますが、
曜日や時間等に制限もあるので、
見学される場合は、ホームページを確認してください。

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ここが発掘現場です。

元々江戸時代に建てられた神社があった場所ですが、
移転に伴って、発掘する事が出来るようになったとの事です。
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ここは歴代の王が眠る北墳丘墓の近くで、
この環壕集落でも重要な場所だった可能性が高く、
貴重な遺物の出土が期待されているらしいです。
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すでにこのような甕棺がいくつか出土していました。
甕棺(かめかん)とは、大きな甕のなかに遺体を入れて葬る
弥生時代の墓制で、北部九州(福岡、佐賀)に見られます。

完全な形の物は少なく、
ほとんどの物が2000年の歳月の間に、
壊れています。
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発掘エリアはかなり広く、この日は一般の人による、
体験発掘が行われていました。
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見学者は、ひっきりなりにやってきて、
調査員の方が、説明しています。
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この丸い物も甕棺です。上半分が削り取られています。
この中に人骨が残っているのかと言うと、

残っている場合と、残っていない場合があり、
埋められた場所の土の酸性の度合いが強いと、
(一部または全部が)溶けてなくなるそうです。
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遺物が出土した場所には、保護するためのビニールシートが、
掛けられています。
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この辺りはかなり広範囲にシートが掛けられています。
左上の方に三脚が見えますが、この日テレビ局?が取材に来ていました。
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調査員の方が、説明しているところです。

この方は、非常に気さくで説明が上手く、
話も面白くて思わず聞き入ってしまいました。

ここからは、江戸時代から弥生時代までの遺物が、
出土しているとの事です。
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発掘体験の様子です。

調査員の指示で、スコップで表面を少しづつ削っています。
甕棺か何か出土したのかはわかりませんが、
この辺りには、多くの甕棺が埋められているようなので、
見つかったのかもしれません。

しかも高い身分の人たちが葬られている墓地の可能性が高い、
という事なので、何か重要な物が見つかる事が期待されています。

つい先日、弥生時代の物ではないですが、
奈良時代の”権”(けん)という、
当時の役所で使われていた青銅の錘が出土しています。

当時ここに郡衙(ぐんが)という役所があったと言われていた事を、
裏付ける遺物らしいです。

現在資料館に展示されています。

ちなみにこのすぐ近くには、古代官道が通っていた事を示す、
丘を切り欠いた、切通しがあります。

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このバスは、公園内を巡回しているシャトルバスです。
公園はかなり広いので、このようなバスが主要な地点を回っています。

バスの先に見える柵の向こう側には、
歴代の王が眠る、北墳丘墓があります。
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ここが、北墳丘墓の入り口です。
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内部には、発掘した当時の状態をそのまま復元して保存されています。
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ここの甕棺は、実物を貼り付けてあるそうです。
建物内は、気温と湿度を一定にしてあるため、
ややジメジメしたような感じがします。
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王の甕棺だけに、銅剣やガラス製管玉など非常に貴重な副葬品が、
出ています。

いくつもの王の甕棺が、
このクニが数百年に渡って存続していた事を、
示しています。
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外に出て、南の方を見ると、
大きな建物群が見えます。

吉野ヶ里で一番重要な北内郭の建物群です。
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途中には、甕棺墓列があり、
一部埋葬の様子を再現してあります。
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これは大人用の半分ほどの大きさしかない、
子供用の甕棺です。

子供用の小さな甕棺も多く出土していて、
当時子供の死亡率が高かった事が窺えます。

尤も、子供の死亡率が高かったのは、
ほんの数十年ほど前の医療が発達していなかった時代まで、
ずっと続いていましたが。
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これは収穫した食物を蓄えておくための、
高床式の倉庫です。
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北内郭は、重要な区画のため壕と板塀で厳重に守られていたようです。
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ここに建っているのが、吉野ヶ里遺跡の象徴の一つ、
主祭殿です。
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弥生時代最大級の建物だと言われています。
建物の形は、いくつかの資料を基に再現されています。
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建物は、16本もの太い柱で支えられています。
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内部には、クニの各地から集まってきた要人達が、
王の前で収穫の時期を決める会議を開いている様子が、
リアルに再現されています。
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その収穫の時期を占うのは、巫女の役割だったと、
考えられています。
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発掘当時の写真を見ると、柱や壕の跡がはっきりとわかります。
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吉野ヶ里遺跡と言えば、やはり数キロにもなる環濠ですね。
このように一部、降りる事ができる階段があります。
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かなり深く、落ちたらまず這い上がる事は出来ないでしょう。
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階段が無いと、出られません。
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重要な箇所は、二重の壕になっている上に、
こんな尖った杭まで打ち込まれています。
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逆茂木と呼ばれる杭です。
戦いを繰り返すうちに、
どんどん防御を高めていったのでしょうか。

クニが大きくなると、
隣のクニと対立する事になり、

最後は暴力となる・・。

ここの環壕を見ていると、
その始まりを思わずにはいられません。

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南内郭には、これも吉野ヶ里遺跡の象徴的な建物、
物見櫓が建っています。


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同じエリア内には、身分が高い人の住居がいくつか再現されています。
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王の妻が機織りをしている様子が再現されています。
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ほとんどの見学者が、物見櫓に登ります。
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吉野ヶ里の全盛期には、
海岸線がここから近い所にあったとの事なので、
海が見えていたのでしょうか?
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この山の風景は、弥生人も同じように見ていたのかもしれません。
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深い環壕と柵に囲まれているので、
吉野ケ里遺跡は、城にも分類されているようです。
(全国のお城紹介本にも載っています)
確かにここを攻めるのは容易ではなかったと思われます。
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近くの資料館には、どれだけ激しい戦いが繰り返されてきたのかを
物語る展示物があります。
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この首無し遺体ですね。
首は戦利品として持ち帰られてしまったのでしょうか。

他にも矢じりが10個刺さっていた遺体も展示されています。

まさに魏志倭人伝の”倭国大乱”を思わせます。
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これは王の甕棺に副葬してあった、
銅剣とガラス製の管玉です。

特にガラス製の管玉がこれだけまとまって発見されたのは、
例がないらしいです。
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この建物内では、体験学習や、
土器の修復作業が行われています。
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ここで土器の破片をパズルのように、
接着剤でつなぎ合わせる作業が行われています。
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修復された甕棺ですが、
バラバラの破片からここまで完成させるには、
かなりの根気と時間がかかりそうです。
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これは吉野ケ里歴史公園の全体模型です。
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南のムラと名付けられた、一般の人?が住んでいたとされるエリアの、
復元の過程が説明されています。
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ここは東側にある公園のメインゲートです。
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遺跡エリアに行くには、こちらからが近いです。
このメインゲートには、お土産屋やレストランがあるので、
ちょっと紹介しておきます。
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これは吉野ヶ里のキャラ、「ひみか」「やよい」のクッキーと、
佐賀の定番和菓子です。
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北斗の拳とコラボした芋焼酎がありました。
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こちらも焼酎、「山の香」「むつごろう」「魔界」です。
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上は、ちゃいこという名の逸口香(いっこっこう)と言う
佐賀のお菓子で、下は通称「あめがた」と言う佐賀の練り飴です。
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佐賀の銘菓「丸ぼうろ」の吉野ヶ里バージョン
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佐賀牛黒毛和牛カレー

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佐賀牛煎餅
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「或る列車」で採用されたという、「吉野ヶ里のはちみつ」
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これも佐賀の銘菓「小城羊羹」
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佐賀と言えば焼き物という事で、
有田焼のマグカップ、コーヒーカップ類
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そして佐賀のソウルアイス「ブラックモンブラン」のチョコ。
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レストランには、吉野ヶ里ならではの変わったメニューがあります。
「古代貝汁御膳1600円」「弥生鴨御膳1600円」
しかも弥生鴨御膳は、売り切れてます。
今までレストランなど行った事がなかったのですが、
ちょっと気になって来たので、その内食べてみようかと思っています。
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吉野ケ里遺跡と言えば、
魏志倭人伝との関連がどうなのかが非常に気になります。
いったい倭人伝に出て来る30のクニのどのクニなのか?

倭人伝の邪馬台国の説明には、
楼閣と環濠があると書かれていますが、

それが見つかっているのは、
今のところ吉野ヶ里遺跡だけです。

邪馬台国論争は、まだまだ尽きる事はなさそうですが、
今回の発掘で、
論争に一石を投じるような発見がある事を期待しています。

神崎宿から東へ向かったところに、
長崎街道唯一という一里塚が残っているというので、
確認してきました。

ついでに櫛田宮から一里塚まで歩きながら、
街道の様子も見ていきます。
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市街地を離れると、古い家屋がポツポツと残っています。
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景観の整備などは全く行われていないですが、
なんとなく街道の雰囲気が残っています。
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先に進んでいくと、こんなレンガの壁がありました。
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この奥にあった建物は無くなっています。
一体どんな建物があったのか?
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レンガの壁の隣には、こんな古い建物が残っています。
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この辺りも、街道らしい風景です。
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ここは何かの商店だったのだろうか?
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左側は閉店していますが、右側は今もやっている判店でした。

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いかにも昔からここで営業していそうな、菓子店です。
口コミによると、手ごろな価格の和菓子を多品目売っているようです。

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しかし歩いていると、主要な道路の役目を終え、
”取り残された雰囲気”が漂っているのを、
ひしひしと感じてしまいます。

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橋の上には、JRC(日本無線)の
監視装置らしきものが取り付けられています。
おそらく水位を監視していると思われます。

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三本松橋の三本松とは、
このすぐ近くにある一里塚の松?なのでしょうか。
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自動車整備工場かと思ったら、フィットネスジムでした。
最近ジムがあちこちに出来ていますね。
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左側に一里塚が見えてきました。
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ここが「ひのはしら一里塚」です。
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江戸時代初期に徳川家康の命により、
街道の一里毎に設置されたとの事で、
長崎街道に残っているのは、ここだけらしいです。

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高さ4メートルほどの小山で、
周りは石垣なっている堅固な作りです。
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階段で上に上ると、佐賀県遺産の認定証があり、
ここに”ひのはしら”の由来が書いてありました。

それによると、櫛田宮の緋色(赤色)の鳥居が立っていた事から、
”ひのはしら”と呼ばれるようになったとの事です。
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隣の祠から、仏像が見守っています。
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なかなか見晴らしはいいです。

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あらためて塚の周りを見てみます。
まるで城の石垣のようです。

しかしよく見ると、石の積み方に違いがあります。
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これは江戸時代初期の”切り込みハギ”と言う、
石の形を揃えて積み上げる手法のようですが、
この部分は、乱雑に積む”乱積み”で、
42a
ここはキレイに並べる”布積み”となっています。

なぜ途中で積み方を変えてあるのか?
積んだ担当者(地区)が変わったのか?
それとも何か強度的な問題が生じて変えたのか?

気になります。
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ここにはバス停と、見学者用のクルマ数台分の駐車場もあります。
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ここから先は、田んぼが広がっています。
江戸時代から変わらない光景かもしれません。

ひのはしら一里塚、地味ながら見所のある史跡でした。

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