SAGA佐賀マニア~佐賀のマニアックな情報発掘

佐賀の歴史スポットや気になるお店、街歩きネタを発信しています。

佐賀の映画館跡を訊ねるシリーズ。
今回は、唐津の映画館跡を訪ねました。

今回訪ねたのは、唐津駅の近くの材木町近辺と、
西唐津駅近く、その間にある映画館跡です。

その1では、唐津駅近くの映画館跡の訪問記となります。
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唐津スカラ座・唐津センターシネマ

1978年以後1980年以前開館。1990年以後1992年以前閉館。
1990年の所在地は唐津市材木町2087。
跡地は「材木町有料駐車場」。

ロマン映劇/中央大劇/唐津中央大劇

1955年以後1958年以前開館。1982年以後1985年以前閉館。
1982年の所在地は唐津市材木町2987。
跡地は「材木町児童遊園」北西40mにある駐車場。

日之出館/日の出館

1955年以前開館。1963年以後1966年以前閉館。
1963年の所在地は唐津市材木町。

東宝大劇/唐津東宝大劇/唐津東宝大劇1・2

1957年開館。1997年2月16日閉館。
1995年の所在地は唐津市千代田町2109-90。
唐津市最後の従来型映画館。
跡地は「吉野家204号線唐津店」などが入る東宝ビルと駐車場。

★消えた映画館の記憶より

01
唐津へは唐津線を利用して行ってきました。
02
このようなロマンシングサガのラッピングが施された、
ロマサガ列車が期間限定で運行されていて、
03
周遊きっぷが販売されていたので、
久々に鉄道を利用してみようと思ったわけです。
04
昭和なディーゼル車のアナログ感がいいですね。
05
車窓には山と田んぼという、
典型的な日本のローカルな風景が広がります。
06
1時間ちょっとで、唐津駅に到着しました。
07
佐賀駅よりやや小振りですが、キレイな駅です。
まずは、唐津スカラ座・唐津センターシネマ跡へ向かいます。
08
唐津駅前は、南口・北口共整備が進んでいます。
09
裏に入ると、昔の名残を感じる通りとなります。
10
確かに唐津城の城下町の雰囲気が残っています。
11
歴史的景観を意識した商店の建物も目立ちます。
12
唐津と言えば、”唐津くんち”という事で、
曳山の写真パネルやポスター等を街中の至る所で、
見かけました。
13
この辺は、昭和な雰囲気が残っています。
14
大通りに出ました。
15
旧唐津銀行の建物です。
17
この先に唐津スカラ座・唐津センターシネマがあったようです。
18
この駐車場が唐津スカラ座・唐津センターシネマ跡です。
24
場所は、魚屋町の一角で町田川の側です。
22
駐車場の広さから考えると、
そこそこ大きな映画館だったのかもしれません。
1991年頃という比較的最近まで存在していたとの事です。

映画館があった痕跡は、見つけられませんでした。
25
次に、ロマン映劇/中央大劇/唐津中央大劇が、
あった場所へ向かいます。
この通りは、昭和の雰囲気がかなり残っています。
26
こんな昭和レトロな看板の喫茶店があります。
もしかしたら”ぜんざい”で有名?なお店かも。
27
しかしシャッターが下りた店舗も多く見られます。
28
これは漆喰が塗られた、蔵のような店舗です。
この隣に映画館があったようです。
28a
ここにロマン映劇/中央大劇/唐津中央大劇があったとの事です。
現在駐車場になっています。

駐車場の広さから見て、
それほど大きくはない映画館だったようです。
と言っても、地方都市にあった映画館としては、
標準的な規模だったのかもしれません。

1984年頃まで存在していたようです。

ここも痕跡はありませんが、
ブロック塀は、
映画館が存在した頃からあったのかもしれません。
29
近くにはこんな市場がありました。
ここも古そうです。
30
キレイなトイレがある公園があったので、
ちょっと休憩しました。
31
小さな公園の割には、充実した遊具です。
最近の子供は、公園で遊んだりしているのだろうか?
32
ここは側面が崩れてきている廃店舗です。
33
隣の店舗は撤去されているようです。
もういつ崩壊してもおかしくない程の劣化具合です。
35
先に進むと、閉店している店舗が目立ちます。

営業している店舗も、
昭和で時代が止まってしまったかのようです。
36
この電気店も周りのクルマが写ってなければ、
昭和の時代に撮ったと言っても気づかれないでしょう。
37
閉店している店舗からは、
何とも言えない物悲しさが漂っています。
38
この通りも映画館があった頃は、
賑やかだったんでしょうか。
39
この辺りは、駅周辺とは全く違う寂れた雰囲気ですが、
昭和レトロ好きにはたまらない通りでもあります。
かなり長時間散策してしまいました。

材木町にはもう一館、
日之出館/日の出館という映画館が、
1966年頃まであったようですが、
こちらは場所がわかりませんでした。
40
そして東宝大劇/唐津東宝大劇/唐津東宝大劇1・2
あった場所へやってきました。
41
この建物の場所に映画館ありました。
閉館する直前くらいに見た事があるので間違いないです。
42
何か映画館の痕跡でもないかと探していると、
43
この地図の中に・・
44
東宝ビル、(資)東宝大劇の名称がありました。
地図がちょっと古いのでテナントは変わっています。

現在は東宝大劇という会社が入っているのかどうかは、
不明です。

わずかに街の店舗地図の中に痕跡を見る事ができました。

唐津東宝大劇は、1997年2月16日に閉館となっています。

次は、西唐津駅近くにあった映画館跡と、
唐津-西唐津間にあった映画館跡です。

死ぬまでに観たい映画1001本 第五版
ネコ・パブリッシング
2022-11-11


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街歩きをしていると、
時折ディープスポットに遭遇するものですが、

今回は、まさかここにあるとは!

と言う場所に、ディープスポットがありました。
00
場所は、佐賀駅から南に延びる大通りからちょっと入った辺りと言う、
かなり開発が進んだような場所です。

佐賀駅の南と言えば、ホテルの廃墟と言うディープスポットが、
2023年1月現在まだ存在しているのですが、

それ以上のディープスポットが残っているとは思っていませんでした。
00a
近くには、昭和の雰囲気を色濃く残す店舗の建物があります。
00b
複数の飲み屋や飲食店が入った建物です。
なんとなくここが気になったから見に行ってみたのですが、
01
その先に古い家屋がある一角がありました。
02
昭和初期かそれ以前からあるような家です。
もちろん空き家だと思います。
03
その隣にはシャッターが下りた家屋があり、
シャッターには”伊東米店”と書いてあるようです。
電話番号は、かなり昔の番号だと思われます。

ご覧のように、二階が崩壊しかけています。
05
その隣にも空き家があります。
住人が居なくなってからかなりの年月が経っているようです。
07
正面から見ると、屋根が垂れ下がっていて、
近い内に崩れそうです。
08
裏に回ってみました。
右側の屋根が崩れてきています。
09
この子供用のブランコで、
幼い兄弟姉妹が遊んでいたのでしょうか。
10
自動車のサスペンションのスプリングのような物の側には、
中学生が自転車通学で被るヘルメットが転がっています。

ブランコで遊んでいた子供が中学生になり、
あのヘルメットを被って通学していたのでしょうか。

家の中にも家財道具が放置されたまま、
住人はいなくなっているようです。
11
これは先ほどの”伊東米店”の側面です。
屋根の一部と壁の大部分が無くなっています。
12
この家の裏には、大きなボイラーのようなものがあります。
13
家の中は複数の小さな個室に分かれていて、
14
どの部屋も下半分がタイル張りになっていて、
ほとんどが壊れていますが、小さな浴槽が付いています。
15
つまり浴室だったようです。
あのボイラーでお湯を沸かしていたのでしょう。
16
この建物は、元々旅館だったのでしょうか。
その後米店となったのか?
17
ボイラーの奥には、こんな鉄の階段があり、
二階に上がれるようになっていました。

ここは使われなくなってから、
数十年は経っていると思われます。

佐賀駅の近くにこんな超ディープな一角が残っているとは、
驚きました。

おそらくそう遠くない時期に取り壊され、
新しいビルなどが建てられるのかもしれません。

その前に出会えて幸運?でした。

佐賀市内の柳町、長崎街道からちょっとそれた所に、
ディープスポットがありました。
00a
この路地の奥です。
02
何やら古そうな建物がチラッと見えたので、
奥に行ってみると、昭和のアパートがありました。
松原荘という廃アパートです。

○○荘という名称のアパートは、
もうあまり残っていません。

このアパートは、ご覧のように一部崩壊しかけています。
03
アパートの奥の建物のドアには、
いくつかのステッカーが貼ってあり、

濡れてヨレヨレになった、
佐賀市の広報誌が突っ込まれていました。
この家ももちろん無人です。
04
このアパート、住人が居なくなってからどれ位経っているのか?
05
住人がいなくなった建物は、
急速に劣化が進むものですが、

屋根がここまで崩れている所を見ると、
20年以上?は、経っているかもしれません。
06
アパートの向かい側右の建物も、
一見空き家のようですが、
07
どうもまだ住人が住んでいるような気配があります。

この辺りには、古い家屋が割と残っていますが、
ここまでディープな場所があるとは、
気が付きませんでした。

このアパートは、
いつまでここに存在し続けるかわかりませんが、

消え去る前に記録として残せたのは幸いです。


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佐賀の映画館跡を巡るシリーズ、
今回は武雄の映画館跡に行ってきました。

武雄には、

武雄日活銀映劇場・武雄大洋・富士館・武雄東映
(いずれも最後の名称)
の4館の映画館があったようです。
01
武雄温泉駅は、
ご存じのように9月より西九州新幹線が開通したので、
ついでに新幹線ホームまで入場券で入って、
どんなものか見てみる事にします。
02
ちょうど新幹線が停車していました。
手前には、ホームドアがあります。

さすが新幹線だけに、
車内も先進的な造りになっています。
03
この後発車していきましたが、
やっぱり実物を見ると、ちょっと乗ってみたくなります。
これが佐賀駅経由で新鳥栖まで繋がる日が来るのでしょうか。
04
しかし武雄駅とその周辺は、
再開発が進んで以前の面影がまったくありません。
05
道路が拡張されて、多くの店舗が無くなっているようです。
06
このファミリーマートは、景観を意識した?建物になっています。
07
昔から続いていそうな店舗も残ってはいます。
甘党の店三喜堂
おはぎ、ふみ餅、回転焼です。

こんなのが割と好きなのでちょっと気になりました。

武雄日活銀映劇場はこの近くにあったようです。
08
この建物付近にある駐車場のようです。
09
おそらくここではないかと思われます。
全く痕跡は残っていません。

武雄日活銀映劇場は、
1970年以後1973年以前に閉館しているとの事です。
10
その先のヤマハ音楽教室の隣のビルが、
武雄大洋だったと思われる場所です。
11
現在は、雑居ビルになっています。
武雄大洋は、1995年以後1998年以前に閉館と、
比較的最近まで存在していたようです。
と言っても、閉館して25年ほど経ってはいますが。
13
次に残りの2館の跡地へ向かいます。
ここからすぐ近くにあるはずです。
14
この通り沿いにある旅館の側の駐車場らしいです。
15
途中に小さな神社があったので、
何気に立ち寄って見ると、
16
神社の由来の説明の右側に、
懐かしの武雄のまちなみという地図が載っています。
17
なんと昭和39年の地図です。
という事は映画館も存在していた頃なので、
確認してみました。
19

武雄日活(1)
すると、ちゃんと載ってました。
武雄日活と武雄大洋です。

武雄日活の隣は、今も営業している”橋口米屋”があります。
武雄大洋の隣は、佐賀銀行があったようです。
富士館
こちらには、これから訪ねる富士館と武雄東映が載っています。
何気に立ち寄った小さな神社で、
思いがけなく場所が判明する事になりました。
21
場所が分かったところで、確認に向かいます。
22
この京都屋の駐車場が、富士館があった場所です。
痕跡はまったくありません。
富士館は、例によって1966年以前に閉館となっています。
23
その隣にあるコンクリートの建物は、
かなり古そうです。
ここが地図にある歯科医院だったのでしょうか。
24
その隣の駐車場が、武雄東映跡です。
25
かなり広い駐車場ですが、
映画館はどれくらいの大きさっだのか?
武雄東映は1969年以前に閉館となっているようです。
26
駐車場の向かいの家は、
映画館があった頃から存在していたことでしょう。
28
この辺りは、旧長崎街道のルートとなっていたようなので、
ちょっと散策してみます。

鍵型道路と言って、わざと曲がり角を作っています。
佐賀宿の鋸型と同じく攻め手の勢いを削ぐ目的のようです。
29
この辺は、なんとなく往時の面影が残っているようです。
30
しかし閉店している店舗も多く見られます。
ここは何の店舗だったのか?
31
ここも大分前に閉店しているようです。
32
ここも閉店している商店かと思ったら、
33
板金屋だったようです。
34
ここは色が落ちて、アートのようになっています。
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歓楽街へ出てきました。
36
いわゆる風俗店の看板がいくつか見られます。
37
武雄で一番有名な楼門です。
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ここには温泉もあり、観光客がかなり多く訪れていました。
39
所々に長崎街道の説明板が設置してありました。
40
宮本武蔵が使ったと言う井戸があるようです。
41
この辺りは、景観を意識した通りになっています。
43
ここはイベントなどをやるための広場でしょうか。
44
明治期のポストを模したレトロポストです。
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この辺りも街道の雰囲気が残っています。
47
曲がり角に説明板がありました。
48
ここも鍵型道路でした。
49
その先には、昭和の家屋が割と残っているようです。
50
更にその先に進むと、
再開発された地区の広い道路と繋がっていました。

楼門付近は、
思ったより観光客が多く賑わいを見せていましたが、

そこを離れると、
ちょっと寂しい雰囲気なのは否めませんでした。

それでも駅とその周辺の激変ぶりには驚きました。
やはり新幹線が来ると、
急速に街は変わって来るのかもしれません。



吉野ヶ里歴史公園の一角で、新たに発掘が始まって、
一般公開もされているという事なので、

どんな様子なのか、見学に行ってきました。

実は古代史に興味があったりするので、
ここには年に2回ほど訪れていて、
トータル30回以上にはなると思います。
01
吉野ヶ里歴史公園の裏口?にあたる、
西口ゲートから入りました。

入場料は、大人460円となっています。
西口にも駐車場があり、
普通車(軽も)310円となっています。

神崎駅から歩いて来ることも出来ますが、
20分くらいはかかります。
02
西口から入ると、広い広場となっています。
03
ここは遺跡エリアではなく、イベントが行われたり、05
ファミリーバーべーキューやデイキャンプがやれるようになっています。
04
この広場を通り抜けると、
06
発掘現場があります。

一般開放されていて、発掘現場を見学できますが、
曜日や時間等に制限もあるので、
見学される場合は、ホームページを確認してください。

07
ここが発掘現場です。

元々江戸時代に建てられた神社があった場所ですが、
移転に伴って、発掘する事が出来るようになったとの事です。
08
ここは歴代の王が眠る北墳丘墓の近くで、
この環壕集落でも重要な場所だった可能性が高く、
貴重な遺物の出土が期待されているらしいです。
09
すでにこのような甕棺がいくつか出土していました。
甕棺(かめかん)とは、大きな甕のなかに遺体を入れて葬る
弥生時代の墓制で、北部九州(福岡、佐賀)に見られます。

完全な形の物は少なく、
ほとんどの物が2000年の歳月の間に、
壊れています。
10
発掘エリアはかなり広く、この日は一般の人による、
体験発掘が行われていました。
11
見学者は、ひっきりなりにやってきて、
調査員の方が、説明しています。
12
この丸い物も甕棺です。上半分が削り取られています。
この中に人骨が残っているのかと言うと、

残っている場合と、残っていない場合があり、
埋められた場所の土の酸性の度合いが強いと、
(一部または全部が)溶けてなくなるそうです。
13
遺物が出土した場所には、保護するためのビニールシートが、
掛けられています。
14
この辺りはかなり広範囲にシートが掛けられています。
左上の方に三脚が見えますが、この日テレビ局?が取材に来ていました。
15
調査員の方が、説明しているところです。

この方は、非常に気さくで説明が上手く、
話も面白くて思わず聞き入ってしまいました。

ここからは、江戸時代から弥生時代までの遺物が、
出土しているとの事です。
16
発掘体験の様子です。

調査員の指示で、スコップで表面を少しづつ削っています。
甕棺か何か出土したのかはわかりませんが、
この辺りには、多くの甕棺が埋められているようなので、
見つかったのかもしれません。

しかも高い身分の人たちが葬られている墓地の可能性が高い、
という事なので、何か重要な物が見つかる事が期待されています。

つい先日、弥生時代の物ではないですが、
奈良時代の”権”(けん)という、
当時の役所で使われていた青銅の錘が出土しています。

当時ここに郡衙(ぐんが)という役所があったと言われていた事を、
裏付ける遺物らしいです。

現在資料館に展示されています。

ちなみにこのすぐ近くには、古代官道が通っていた事を示す、
丘を切り欠いた、切通しがあります。

17
このバスは、公園内を巡回しているシャトルバスです。
公園はかなり広いので、このようなバスが主要な地点を回っています。

バスの先に見える柵の向こう側には、
歴代の王が眠る、北墳丘墓があります。
19
ここが、北墳丘墓の入り口です。
20
内部には、発掘した当時の状態をそのまま復元して保存されています。
21
ここの甕棺は、実物を貼り付けてあるそうです。
建物内は、気温と湿度を一定にしてあるため、
ややジメジメしたような感じがします。
22
王の甕棺だけに、銅剣やガラス製管玉など非常に貴重な副葬品が、
出ています。

いくつもの王の甕棺が、
このクニが数百年に渡って存続していた事を、
示しています。
23
外に出て、南の方を見ると、
大きな建物群が見えます。

吉野ヶ里で一番重要な北内郭の建物群です。
24
途中には、甕棺墓列があり、
一部埋葬の様子を再現してあります。
25
これは大人用の半分ほどの大きさしかない、
子供用の甕棺です。

子供用の小さな甕棺も多く出土していて、
当時子供の死亡率が高かった事が窺えます。

尤も、子供の死亡率が高かったのは、
ほんの数十年ほど前の医療が発達していなかった時代まで、
ずっと続いていましたが。
26
これは収穫した食物を蓄えておくための、
高床式の倉庫です。
27
北内郭は、重要な区画のため壕と板塀で厳重に守られていたようです。
28
ここに建っているのが、吉野ヶ里遺跡の象徴の一つ、
主祭殿です。
32
弥生時代最大級の建物だと言われています。
建物の形は、いくつかの資料を基に再現されています。
29
建物は、16本もの太い柱で支えられています。
30
内部には、クニの各地から集まってきた要人達が、
王の前で収穫の時期を決める会議を開いている様子が、
リアルに再現されています。
31
その収穫の時期を占うのは、巫女の役割だったと、
考えられています。
34
発掘当時の写真を見ると、柱や壕の跡がはっきりとわかります。
35
吉野ヶ里遺跡と言えば、やはり数キロにもなる環濠ですね。
このように一部、降りる事ができる階段があります。
36
かなり深く、落ちたらまず這い上がる事は出来ないでしょう。
37
階段が無いと、出られません。
55
重要な箇所は、二重の壕になっている上に、
こんな尖った杭まで打ち込まれています。
56
逆茂木と呼ばれる杭です。
戦いを繰り返すうちに、
どんどん防御を高めていったのでしょうか。

クニが大きくなると、
隣のクニと対立する事になり、

最後は暴力となる・・。

ここの環壕を見ていると、
その始まりを思わずにはいられません。

38
南内郭には、これも吉野ヶ里遺跡の象徴的な建物、
物見櫓が建っています。


40
同じエリア内には、身分が高い人の住居がいくつか再現されています。
41
王の妻が機織りをしている様子が再現されています。
43
ほとんどの見学者が、物見櫓に登ります。
44
吉野ヶ里の全盛期には、
海岸線がここから近い所にあったとの事なので、
海が見えていたのでしょうか?
45
この山の風景は、弥生人も同じように見ていたのかもしれません。
46
深い環壕と柵に囲まれているので、
吉野ケ里遺跡は、城にも分類されているようです。
(全国のお城紹介本にも載っています)
確かにここを攻めるのは容易ではなかったと思われます。
47
近くの資料館には、どれだけ激しい戦いが繰り返されてきたのかを
物語る展示物があります。
49
この首無し遺体ですね。
首は戦利品として持ち帰られてしまったのでしょうか。

他にも矢じりが10個刺さっていた遺体も展示されています。

まさに魏志倭人伝の”倭国大乱”を思わせます。
48
これは王の甕棺に副葬してあった、
銅剣とガラス製の管玉です。

特にガラス製の管玉がこれだけまとまって発見されたのは、
例がないらしいです。
50
この建物内では、体験学習や、
土器の修復作業が行われています。
51
ここで土器の破片をパズルのように、
接着剤でつなぎ合わせる作業が行われています。
52
修復された甕棺ですが、
バラバラの破片からここまで完成させるには、
かなりの根気と時間がかかりそうです。
53
これは吉野ケ里歴史公園の全体模型です。
54
南のムラと名付けられた、一般の人?が住んでいたとされるエリアの、
復元の過程が説明されています。
57
ここは東側にある公園のメインゲートです。
58
遺跡エリアに行くには、こちらからが近いです。
このメインゲートには、お土産屋やレストランがあるので、
ちょっと紹介しておきます。
59
これは吉野ヶ里のキャラ、「ひみか」「やよい」のクッキーと、
佐賀の定番和菓子です。
60
北斗の拳とコラボした芋焼酎がありました。
61
こちらも焼酎、「山の香」「むつごろう」「魔界」です。
62
上は、ちゃいこという名の逸口香(いっこっこう)と言う
佐賀のお菓子で、下は通称「あめがた」と言う佐賀の練り飴です。
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佐賀の銘菓「丸ぼうろ」の吉野ヶ里バージョン
64
佐賀牛黒毛和牛カレー

65
佐賀牛煎餅
70
「或る列車」で採用されたという、「吉野ヶ里のはちみつ」
71
これも佐賀の銘菓「小城羊羹」
68
佐賀と言えば焼き物という事で、
有田焼のマグカップ、コーヒーカップ類
69
そして佐賀のソウルアイス「ブラックモンブラン」のチョコ。
67

レストランには、吉野ヶ里ならではの変わったメニューがあります。
「古代貝汁御膳1600円」「弥生鴨御膳1600円」
しかも弥生鴨御膳は、売り切れてます。
今までレストランなど行った事がなかったのですが、
ちょっと気になって来たので、その内食べてみようかと思っています。
72
吉野ケ里遺跡と言えば、
魏志倭人伝との関連がどうなのかが非常に気になります。
いったい倭人伝に出て来る30のクニのどのクニなのか?

倭人伝の邪馬台国の説明には、
楼閣と環濠があると書かれていますが、

それが見つかっているのは、
今のところ吉野ヶ里遺跡だけです。

邪馬台国論争は、まだまだ尽きる事はなさそうですが、
今回の発掘で、
論争に一石を投じるような発見がある事を期待しています。

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