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2019年12月

佐賀県には、見応えのある山城がいくつかあります。
その中でも5本の指に入る山城の一つが、

勝尾城(かつのおじょう)です。

中世の山城の全貌が垣間見れるという、全国でも屈指の山城跡として、
国指定史跡となっています。

場所は、鳥栖駅から8キロほどの山間部に位置しています。
佐賀市からだと、鳥栖プレミアムアウトレットの1キロくらい手前から左折して、
山の方に向かって10分くらい走ると、広い駐車場があります。

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ここが駐車場です。
どこかのグラウンドかと思うほど広い駐車場です。

実は、ここから1キロちょっと登った所にも駐車場がありますが、
せっかくなのでここに車を停めて散策がてらに歩く事にします。

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駐車場の側に設置されている説明板。
かなり広いエリアに遺構が残されている事が、わかります。

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勝尾城の周囲にはいくつも支城があり、城下には2.5km×2kmもの規模の、
城下町が広がっていたとあります。

この事からも、筑紫氏の勢力の大きさが窺い知れます。


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説明板にある遺跡の各所の写真を見ていると、
早く現物を見たい気持ちが昂ります。

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駐車場から勝尾城の登山道入り口へと延びる道です。
ここを1キロちょっと歩きます。



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途中にある小さな集落です。

日本の原風景を見る思いで、
何か心の安らぎのような物を感じてしまう、いい風景です。
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こんな某番組にも出てきそうな、ポツンと離れた一軒家がありました。
代々ここで暮して来たのでしょうか。

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登山道入り口にある駐車場に到着しました。
この駐車場も結構広いです。







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左の階段を登ると、登山道入り口です。


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トイレもあります。

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想像よりもキレイでした。


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これでもこの手のトイレにしては、まだマシな方です。

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石段を登ると小さな神社があります。

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このすぐ近くには、筑紫氏の館跡があり、
こんな説明板が設置されています。

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左が勝尾城への登山道です。

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登り始めると角がとがった石がゴロゴロしていて、
歩きにくいです。

この石は石垣の石の残骸なのでしょうか。
とにかく驚くほどの量が転がっています。

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登山道は、思ったより険しくて所々にこんなロープが張ってあります。

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30分くらい登って、大手曲輪までやってきました。

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その周辺には、巨石がゴロゴロ転がっています。
こんな巨石を砕いて、石垣の石にしていたのでしょう。

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この最後の急斜面を登れば、城の主郭(本丸)です。

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主郭へ到着です。
登山道入り口から40分ほどかかりました。

かなり急な場所も多く、低山登山くらいの労力を要します。






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主郭部とその周辺の図です。
これを見ると、かなり大規模な城郭だとわかります。

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山の名は、城山となっています。

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主郭には、このような石垣の跡が至る所に見られます。

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主郭の南端には、物見岩と呼ばれる岩があります。
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ちなみに標高は、498メートルです。

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物見岩から見える景色は、絶景です。
なるほどここに城を構えるわけです。

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晴れていれば、由布岳や雲仙普賢岳も見渡せます。

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この時(12月半ば)の気温は、この温度計によると、
10度くらいですね。

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一通り主郭を見学した後、下山しながら大手曲輪へ向かいます。

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ここが大手曲輪です。
斜面を平坦に切り開いているのがわかります。

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このような説明板があります。

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周囲は、こんな石垣で固められていたようです。
端の方は、急斜面となっていて容易に攻め込めない作りとなっています。

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付近には、一部加工された石が転がっています。

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ここに建っていた建物の瓦の破片でしょうか。

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この石垣の積み方から、戦国時代初期頃に積まれた石垣だと思われます。

入口まで降りたので、筑紫氏館跡を見学します。

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説明板によると、南北100m、東西80mもの規模を誇ったようです。
一般庶民では、とても持てないような高級な陶磁器などが出土していますね。

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こんなに立派な屋敷がここにあったとは、驚きです。
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ここが館跡の虎口(入口)だったようです。

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現在は痕跡らしいものは、ほとんど残っていないように見えます。
屋敷のエリアは、この奥までずっと続くほど広いです。

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付近に転がっている石は、石垣に使われていた石なのかもしれません。

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一部石垣が残っていました。
往時には、小規模の城並に石垣で囲まれていたのでしょう。

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瓦の破片が、あちこちに落ちています。
屋敷に葺かれていた瓦だと思われます。

この屋敷は、島津氏との戦いで焼け落ちて灰燼に帰したそうです。

大変な労力と時間を掛けて建てられたであろう立派な屋敷も、
焼け落ちるのは一瞬・・。

戦国時代の厳しさ残酷さを思わずにはいられません。

駐車場まで戻った後、すぐ近くにある支城である葛籠城跡まで行ってみました。
駐車場から歩いて10分ほどです。

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この辺りが、葛籠城跡です。

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説明板も設置してあります。

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城郭のエリアとしては、300m×150mほどあります。

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ここが主郭です。
ちょっとした公園並の広さがあります。

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主郭の周りには、空堀が掘られています。
これは、現在でもはっきりと確認できます。

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ちょっと離れた所には、武家屋敷跡があります。

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この辺りが武家屋敷跡らしいです。
今は木々が茂っていますが、当時は開けていて屋敷が並んでいたのでしょう。

少し離れた所には、城下町の跡があり発掘調査されているようです。

山城から屋敷跡、武家屋敷跡、城下町跡まで揃って残っているのは、
全国的にも稀らしく城跡としては最高クラスの史跡だと言えます。

ある程度山城の知識を持って、この史跡を巡ると見方がまた違ってくると思います。
超おすすめの山城です。







佐賀県にかつて存在していた城郭で最も大きいのが、
肥前名護屋城です。

豊臣秀吉が、朝鮮出兵の前線基地として築いたお城として知られています。

廃城となって400年以上経ちますが、広大なエリアに多くの石垣が残っていて、
いかに巨大な城郭だったかを彷彿とさせます。

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ここは、大手門へと続く入り口前にある広場です。

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石垣がある辺りが、メインゲートである大手門があったとされる場所です。

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崩れてはいますが、かなりの規模の石垣があったようです。

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石をよく見ると、このような窪みが並んでいるのが分かります。
これは、石を割った時の楔のあとです。

割りたい線に沿って楕円形にくり抜き、そこに2つに分かれた金属をはめ込み、
その間に先のとがった三角形の金属をあてがい、
ハンマーを振り落としてひびを作っていって、最後にパカッと2つに割れるのでしょう。

結構面倒な作業ですが、これを延々と繰り返して、
大きな石から石垣の石を何万個も切り出して行ったかと思うと、
一つの城を立てるのがいかに大変だった事か。

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石の積み方は、戦国末期の城によく見られる石をそのまま積んでいく、
野面積みからやや形を整えて積んでいく、打ち込みハギの中間くらい?
の積み方です。

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城内には、こんな石がゴロゴロ転がっています。

廃城になった時に石垣が破壊されたと言われているので、
あちこちに転がっているのかもしれません。

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城内は広大なので、こんな案内板があちこちに設置してあります。

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木々が生い茂っていますが、この辺りが三の丸があった所です。

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図で見るとこのようになっています。
三の丸だけでもかなりの広さがあります。

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三の丸の説明版です。
今でも発掘調査が行われていて、その調査報告もされています。

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隅の方には、櫓が建っていた石垣があちこちに残っています。

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半分崩落してる石垣が多いですが、
近くで見ると石垣の積み方がよく分かったりして興味深いです。

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ここは、本丸への入り口である本丸大手という場所です。

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説明板によると、門や櫓が建っていたようです。

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この石段を登ると本丸です。





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ここが本丸です。

当時最大級のお城だっただけあって、
並の城とは比べ物にならない広さを誇っています。

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本丸の説明と調査報告の説明板です。。

ここに茶室があり秀吉が、度々茶会を開いていたらしいです。

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本丸には、多門櫓という横に長い櫓があったようです。


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これが多門櫓の説明と発掘調査の報告です。


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人がいる場所が、天守が建っていた場所です。
天守台の広さから、かなり大きな天守が建っていた事が想像できます。

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天守台から下の遊撃丸を見たところです。
ご覧のようにかなりの高さがあります。

向こうの水面は、軍船で埋め尽くされていたのでしょうか。
つい想像をめぐらせてしまいます。

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遊撃丸とは、明の講和使節(遊撃将軍)が滞在したことからそう呼ばれるようです。

明からそんな使節がここに来ていた事とは驚きですが、
一体どんな条件で講和が結ばれたのでしょうか。

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天守台から見た本丸です。

サッカーグランドかと思うほどの広さです。

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名護屋城周辺には、全国から集結した大名の陣屋があります。
これは、ここから見た陣屋の位置を示しています。


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天守台には、小石が敷き詰めてあり間に礎石が並んでいるのが確認できます。

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天守台の端は、このように急になっています。
この面の石垣は崩落しているようです。

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現在石垣の修理が進められていて、このような計画図が設置してありました。

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ここの櫓の石垣は、割とよく残っています。

この部分は、大きさはまちまちですが石の角を揃えた、
切り込みハギに近い積み方となっています。

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柵で囲んであるこの個所は、おそらく井戸ではないかと思われます。

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下から見た天守台です。

石垣の大部分は、崩落しています。

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これも、櫓が建っていた所の石垣です。
ここは、野面積みとなっています。

場所によって石垣の積み方が違うのは、
担当した石工ごとにやり方や技術の差があったと言う事でしょうか。

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ここは、近年の調査で発見された長屋建物跡です。

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説明板によると、長さ約20m、幅約5mの長屋が2棟建っていたと言う事です。

この建物は、築城時の仮設建物の可能性があるようですね。

今で言う現場のプレハブ事務所と休憩所のようなものでしょうか。

何しろ築城時には、全国から数万人が集められて突貫工事が行われたので、
こんな長屋がいくつも建っていたのかもしれません。

しかしこんな大規模な城を、わずか数カ月で築城したとは驚きです。

ここは、天守閣も櫓も残って無い廃城ですが、それだけに想像力を掻き立てられます。
歴史のロマンを感じると共に、儚さと海を隔てた向こう側で行われていた事を思い、
複雑な心境にもなる・・そんな城跡です。

まさに秀吉の”なにわのことも夢のまた夢”と言った心境でしょうか。






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佐賀のお城を紹介した記事です。




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