吉野ヶ里歴史公園の一角で、新たに発掘が始まって、
一般公開もされているという事なので、
どんな様子なのか、見学に行ってきました。
実は古代史に興味があったりするので、
ここには年に2回ほど訪れていて、
トータル30回以上にはなると思います。
吉野ヶ里歴史公園の裏口?にあたる、
西口ゲートから入りました。
西口ゲートから入りました。
入場料は、大人460円となっています。
西口にも駐車場があり、
普通車(軽も)310円となっています。
神崎駅から歩いて来ることも出来ますが、
20分くらいはかかります。
西口から入ると、広い広場となっています。ファミリーバーべーキューやデイキャンプがやれるようになっています。
この広場を通り抜けると、発掘現場があります。
一般開放されていて、発掘現場を見学できますが、
曜日や時間等に制限もあるので、
見学される場合は、ホームページを確認してください。
ここが発掘現場です。
元々江戸時代に建てられた神社があった場所ですが、
移転に伴って、発掘する事が出来るようになったとの事です。
ここは歴代の王が眠る北墳丘墓の近くで、
この環壕集落でも重要な場所だった可能性が高く、
貴重な遺物の出土が期待されているらしいです。
すでにこのような甕棺がいくつか出土していました。
甕棺(かめかん)とは、大きな甕のなかに遺体を入れて葬る
弥生時代の墓制で、北部九州(福岡、佐賀)に見られます。
完全な形の物は少なく、
ほとんどの物が2000年の歳月の間に、
壊れています。
発掘エリアはかなり広く、この日は一般の人による、
体験発掘が行われていました。
見学者は、ひっきりなりにやってきて、
調査員の方が、説明しています。
この丸い物も甕棺です。上半分が削り取られています。
この中に人骨が残っているのかと言うと、
残っている場合と、残っていない場合があり、
埋められた場所の土の酸性の度合いが強いと、
(一部または全部が)溶けてなくなるそうです。
遺物が出土した場所には、保護するためのビニールシートが、
掛けられています。
この辺りはかなり広範囲にシートが掛けられています。
左上の方に三脚が見えますが、この日テレビ局?が取材に来ていました。
調査員の方が、説明しているところです。
この方は、非常に気さくで説明が上手く、
話も面白くて思わず聞き入ってしまいました。
ここからは、江戸時代から弥生時代までの遺物が、
出土しているとの事です。
発掘体験の様子です。
調査員の指示で、スコップで表面を少しづつ削っています。
甕棺か何か出土したのかはわかりませんが、
この辺りには、多くの甕棺が埋められているようなので、
見つかったのかもしれません。
しかも高い身分の人たちが葬られている墓地の可能性が高い、
という事なので、何か重要な物が見つかる事が期待されています。
つい先日、弥生時代の物ではないですが、
奈良時代の”権”(けん)という、
当時の役所で使われていた青銅の錘が出土しています。
当時ここに郡衙(ぐんが)という役所があったと言われていた事を、
裏付ける遺物らしいです。
現在資料館に展示されています。
ちなみにこのすぐ近くには、古代官道が通っていた事を示す、
丘を切り欠いた、切通しがあります。
このバスは、公園内を巡回しているシャトルバスです。
公園はかなり広いので、このようなバスが主要な地点を回っています。
バスの先に見える柵の向こう側には、
歴代の王が眠る、北墳丘墓があります。
ここが、北墳丘墓の入り口です。内部には、発掘した当時の状態をそのまま復元して保存されています。
ここの甕棺は、実物を貼り付けてあるそうです。
建物内は、気温と湿度を一定にしてあるため、
ややジメジメしたような感じがします。
王の甕棺だけに、銅剣やガラス製管玉など非常に貴重な副葬品が、
出ています。
いくつもの王の甕棺が、
このクニが数百年に渡って存続していた事を、
示しています。
外に出て、南の方を見ると、
大きな建物群が見えます。
吉野ヶ里で一番重要な北内郭の建物群です。
途中には、甕棺墓列があり、
一部埋葬の様子を再現してあります。
これは大人用の半分ほどの大きさしかない、
子供用の甕棺です。
子供用の小さな甕棺も多く出土していて、
当時子供の死亡率が高かった事が窺えます。
尤も、子供の死亡率が高かったのは、
ほんの数十年ほど前の医療が発達していなかった時代まで、
ずっと続いていましたが。
これは収穫した食物を蓄えておくための、
高床式の倉庫です。
北内郭は、重要な区画のため壕と板塀で厳重に守られていたようです。ここに建っているのが、吉野ヶ里遺跡の象徴の一つ、
主祭殿です。
弥生時代最大級の建物だと言われています。
建物の形は、いくつかの資料を基に再現されています。
建物は、16本もの太い柱で支えられています。内部には、クニの各地から集まってきた要人達が、
王の前で収穫の時期を決める会議を開いている様子が、
リアルに再現されています。
その収穫の時期を占うのは、巫女の役割だったと、
考えられています。
発掘当時の写真を見ると、柱や壕の跡がはっきりとわかります。吉野ヶ里遺跡と言えば、やはり数キロにもなる環濠ですね。
このように一部、降りる事ができる階段があります。
かなり深く、落ちたらまず這い上がる事は出来ないでしょう。階段が無いと、出られません。
こんな尖った杭まで打ち込まれています。
戦いを繰り返すうちに、
どんどん防御を高めていったのでしょうか。
クニが大きくなると、
隣のクニと対立する事になり、
最後は暴力となる・・。
ここの環壕を見ていると、
その始まりを思わずにはいられません。
南内郭には、これも吉野ヶ里遺跡の象徴的な建物、
物見櫓が建っています。
同じエリア内には、身分が高い人の住居がいくつか再現されています。
王の妻が機織りをしている様子が再現されています。ほとんどの見学者が、物見櫓に登ります。
吉野ヶ里の全盛期には、
海岸線がここから近い所にあったとの事なので、
海が見えていたのでしょうか?
この山の風景は、弥生人も同じように見ていたのかもしれません。
深い環壕と柵に囲まれているので、
吉野ケ里遺跡は、城にも分類されているようです。
(全国のお城紹介本にも載っています)
確かにここを攻めるのは容易ではなかったと思われます。
近くの資料館には、どれだけ激しい戦いが繰り返されてきたのかを
物語る展示物があります。
この首無し遺体ですね。
首は戦利品として持ち帰られてしまったのでしょうか。
他にも矢じりが10個刺さっていた遺体も展示されています。
まさに魏志倭人伝の”倭国大乱”を思わせます。
これは王の甕棺に副葬してあった、
銅剣とガラス製の管玉です。
特にガラス製の管玉がこれだけまとまって発見されたのは、
例がないらしいです。
この建物内では、体験学習や、
土器の修復作業が行われています。
ここで土器の破片をパズルのように、
接着剤でつなぎ合わせる作業が行われています。
修復された甕棺ですが、
バラバラの破片からここまで完成させるには、
かなりの根気と時間がかかりそうです。
これは吉野ケ里歴史公園の全体模型です。
南のムラと名付けられた、一般の人?が住んでいたとされるエリアの、
復元の過程が説明されています。
ここは東側にある公園のメインゲートです。遺跡エリアに行くには、こちらからが近いです。
このメインゲートには、お土産屋やレストランがあるので、
ちょっと紹介しておきます。
これは吉野ヶ里のキャラ、「ひみか」と「やよい」のクッキーと、
佐賀の定番和菓子です。
北斗の拳とコラボした芋焼酎がありました。
こちらも焼酎、「山の香」「むつごろう」「魔界」です。
上は、ちゃいこという名の逸口香(いっこっこう)と言う
佐賀のお菓子で、下は通称「あめがた」と言う佐賀の練り飴です。
佐賀の銘菓「丸ぼうろ」の吉野ヶ里バージョン佐賀牛黒毛和牛カレー
佐賀牛煎餅
「或る列車」で採用されたという、「吉野ヶ里のはちみつ」
これも佐賀の銘菓「小城羊羹」
佐賀と言えば焼き物という事で、
有田焼のマグカップ、コーヒーカップ類
そして佐賀のソウルアイス「ブラックモンブラン」のチョコ。
レストランには、吉野ヶ里ならではの変わったメニューがあります。
「古代貝汁御膳1600円」と「弥生鴨御膳1600円」
しかも弥生鴨御膳は、売り切れてます。
今までレストランなど行った事がなかったのですが、
ちょっと気になって来たので、その内食べてみようかと思っています。
魏志倭人伝との関連がどうなのかが非常に気になります。
いったい倭人伝に出て来る30のクニのどのクニなのか?
倭人伝の邪馬台国の説明には、
楼閣と環濠があると書かれていますが、
それが見つかっているのは、
今のところ吉野ヶ里遺跡だけです。
邪馬台国論争は、まだまだ尽きる事はなさそうですが、
今回の発掘で、
論争に一石を投じるような発見がある事を期待しています。