SAGA佐賀マニア~佐賀のマニアックな情報発掘

佐賀の歴史スポットや気になるお店、街歩きネタを発信しています。

カテゴリ: 佐賀の歴史スポット

佐賀県各地の映画館跡を訪ねながら、
街歩きをするシリーズ。

と言っても、

今や映画館跡の建物などはほとんど残っていないので、
ほぼ街歩き記事となっています。
01
基山町は佐賀県東部に位置して、
福岡県と接する町です。

ここは通過した事はあるものの、
街歩きするのは初めてです。
02
江戸時代には、長崎街道の宿場町だったようです。
03
基山(きざん)にある草スキー場や、
つつじ寺で有名な、大興善寺があります。

また基山は、1350年前に築かれた
古代の城跡がある事でも知られています。

ここには、以下のような映画館がありました。
銀星
佐賀県三養基郡基山町(1961年・1962年・1963年)
開館年 : 1960年頃
閉館年 : 1963年頃
1960年の映画館名簿には掲載されていない。
1961年・1962年・1963年の映画館名簿では「銀星」。
1964年の映画館名簿には掲載されていない。
消えた映画館の記憶より
https://hekikaicinema.memo.wiki/

銀星という映画館が、
1960年頃から1963年頃まで存在していたようです。


ちょうどテレビの普及期と重なったため、
わずか3年ほどで閉館となったのでしょう。
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駅から延びる大きな交差点です。
ここから駅の方へ向かいます。
05
ここには、Aコープ基山店がありますが、
すでに閉店しています。
06
建物についていたマップに何か情報が無いか確認しましたが、
特にこれと言った情報は見つかりませんでした。
07
この建物がかなり古そうで、
大きさや看板など、元映画館に見えなくもありません。
08
近くに大きなスーパーが出来ているので、
閉店してしまったのでしょう。
09
Aコープの隣は農協の建物があり、
裏は広い駐車場となっています。
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横断歩道を渡り、駅へ向かいます。
11
ここは地元のスーパーです。
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道を隔てた向こう側には、
こじんまりとした、ショッピングモールがあります。
13
奥に見えるのが基山駅です。
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そこそこ大きな駅です。
駅前は再開発で古い建物などは見当たりません。
15
基山の散策マップ
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福岡へのアクセスがいいので、
駅の利用者も結構多いのかもしれません。
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地元の工芸品が展示されているスペースです。
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お笑い芸人”どぶろっく”の出身地が基山らしいです。
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あのキングダムの作者も基山出身でした。
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JR以外に、甘木鉄道の駅も併設されています。
基山は色々と利便性が高いようです。
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駅を一通り確認した後、
旧街道沿いを歩いてみました。
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意外とこのような旧家がいくつも残っていました。
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ここから見ると、往時の雰囲気が良く残っています。
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ここは元旅館だったのでしょうか。
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ちょっと気になったのが、この建物です。
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川崎屋という、元小さなスーパーらしき店舗跡です。

閉店してからかなりの年月が経っているように見えますが、

この建物がなんとなくその前は、
映画館だったのではないだろうかと思わせる外観です。

小さな映画館だった雰囲気があります。
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その先も旧街道の面影が残っています。
29
ここも元旅館だったのかもしれません。
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そのすぐ先は、橋があって、
大きな道路が通るアンダーパスになっています。
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その先は左側にあったであろう建物は、
撤去されていて更地になっています。
32
さらにその先には、長崎街道の小さな案内板があり、
そこを曲がると、
33
このように古い建物が残っていました。
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ここは江戸時代から存在しているような建物です。
34a
清酒基峰鶴キホウツルの看板がある事から、
酒蔵でしょうか。
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銀星の場所は特定できませんでしたが、

駅前にあったとしたら、
再開発で建物も無くなっていると思われます。

あの川崎屋がちょっと怪しいですが、
どうなのでしょうか。

それにしても、
旧街道沿いに往時を思わせる古い建物が、
何軒も残っているのには驚きました。

保存整備すれば、
ちょっとした観光名所にもなりそうです。


佐賀の映画館跡を訪ねるシリーズ。
と言っても、映画館の建物はほとんど残ってないので、
ほぼ街歩きをしながら昭和の痕跡を確認するのが、
主な目的となっています。

今回は、唐津市相知町の映画館跡を訪ねながら、
街を散策してみました。

相知町には、相知座/相知映劇と言う映画館があったようです。
1955年以前開館。1963年以後1966年以前閉館。
1960年の所在地は東松浦郡相知町315。
1963年の所在地は東松浦郡相知町。
消えた映画館の記憶より
01
ここが唐津線・相知駅です。
02
駅付近の住宅地図です。
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駅舎は、唐津線の駅の中では立派な建物です。
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かなり大きく、隣にはキレイなトイレも併設されています。
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駅舎の中は、広くて明るい空間となっています。
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もうだいぶ前に、無人駅となっているようです。
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列車の本数は、1時間に1~2本程度です。
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ホームに出てみます。
07
大きな歩道橋があります。
ちなみに唐津線は、単線です。
09
しばらくホームにいましたが、
本数が少ないため列車は来ません。

また、利用する人も現れませんでした。

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駅の外の一角には記念碑がありました。
12
村田英雄記念碑です。
ここ相知町は、村田英雄の出身地でした。
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しばらく駅にいましたが、誰も来ませんでした。
駅舎内は憩いの場、外は公園化されていますが、
利用する人は少ないようです。
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駅前の通りです。

かなり閑散としていますが、
ローカル線の駅前としては、こんなものでしょう。
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この橋には、佐賀と唐津を結ぶ国道203号線が通っています。
つまり今いる通りは、旧道という事です。
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この自動車屋の建物は、相当古そうです。
元は何だったのでしょうか。
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この飲み屋の建物は、崩壊寸前です。
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このJAの建物もかなり古い倉庫のようです。
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ここも昔は商店だったのかもしれません。
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バイパスが出来て、取り残されたような雰囲気が漂っています。
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店舗の多くは閉まっていますが、
昭和の光景の名残は色濃く残っています。

今となっては、この景色が貴重です。
22
この”昭和タクシー”は、すでに何年も前から営業してないようです。
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多くの店舗は、何年も前から閉店しているようです。
24
文化遺産級の家屋もちらほら見られます。
今ならリノベーションして、何らかの活用も出来そうです。
25
車の往来も人通りも非常に少なく、
バイパスが出来た後の旧道の典型的な状況がここに見られます。
26
曲面にタイルが貼ってある家屋が目に留まります。
もしかしたら昭和の個人医院だったのでしょうか。
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その近くには、村田英雄記念館がありました。
28
このような記念館があるとは知りませんでした。

入ってみようかとも思いましたが、
ちょっと入りにくく、やめておきました。
年間どれほどの見学者が訪れるのでしょうか。

もしかしたらここが元映画館だったのかも?
と思いましたが、元銀行だったとの事です。


 
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風景に溶け込んでいるような”昭和バスのりば”
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この2つの建物などは、昭和初期かそれ以前から建っていそうです。
30
元映画館だった建物を探して歩いていましたが、
それと特定できるような建物は見つかりませんでした。

閉館になって50数年も経っているので、
すでに存在していないのかもしれません。

まあ、そんなところが大半です。
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色褪せていますが、相知くんちのポスターです。

唐津くんちは有名ですが、
相知にも”相知くんち”があったとは、
知りませんでした。
32
この建物などは、明治時代、もしかしたら、
江戸時代から存在していたようにも見えます。
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この建物も(片側半分が)映画館だった雰囲気が
無いことも無いですが、どうでしょうか。
33
旧道とバイパスの合流点です。
右側の旧道を歩いてきました。
37
旧道を駅の方へ戻る途中で、なんとなく脇道にそれてみます。
36
するとこのような説明板が立っていて、
読んでみると、通りと平行に街道が通っていたようです。
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今立っている細い道が、佐賀と唐津を結ぶ旧佐賀街道の、
相知小路という事です。
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これが説明にあった、大日如来様の石像と梵字の石碑です。
39
せっかくなので、旧街道を歩いてみます。
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しばらく歩くとスーパーの駐車場に出ました。
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その先にも街道が続いているかに見えましたが、
私有地の中に入って行くようなので、
先には進みませんでした。

映画館の跡は、分かりませんでしたが、

最近は街歩きをする事で偶然出会う、
こんな歴史スポット等を巡るという、

別の楽しみも出来ています。

今後は、今まで行ったことが無い、
小さな町にも足を延ばす予定です。

吉野ヶ里歴史公園の一角で、新たに発掘が始まって、
一般公開もされているという事なので、

どんな様子なのか、見学に行ってきました。

実は古代史に興味があったりするので、
ここには年に2回ほど訪れていて、
トータル30回以上にはなると思います。
01
吉野ヶ里歴史公園の裏口?にあたる、
西口ゲートから入りました。

入場料は、大人460円となっています。
西口にも駐車場があり、
普通車(軽も)310円となっています。

神崎駅から歩いて来ることも出来ますが、
20分くらいはかかります。
02
西口から入ると、広い広場となっています。
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ここは遺跡エリアではなく、イベントが行われたり、05
ファミリーバーべーキューやデイキャンプがやれるようになっています。
04
この広場を通り抜けると、
06
発掘現場があります。

一般開放されていて、発掘現場を見学できますが、
曜日や時間等に制限もあるので、
見学される場合は、ホームページを確認してください。

07
ここが発掘現場です。

元々江戸時代に建てられた神社があった場所ですが、
移転に伴って、発掘する事が出来るようになったとの事です。
08
ここは歴代の王が眠る北墳丘墓の近くで、
この環壕集落でも重要な場所だった可能性が高く、
貴重な遺物の出土が期待されているらしいです。
09
すでにこのような甕棺がいくつか出土していました。
甕棺(かめかん)とは、大きな甕のなかに遺体を入れて葬る
弥生時代の墓制で、北部九州(福岡、佐賀)に見られます。

完全な形の物は少なく、
ほとんどの物が2000年の歳月の間に、
壊れています。
10
発掘エリアはかなり広く、この日は一般の人による、
体験発掘が行われていました。
11
見学者は、ひっきりなりにやってきて、
調査員の方が、説明しています。
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この丸い物も甕棺です。上半分が削り取られています。
この中に人骨が残っているのかと言うと、

残っている場合と、残っていない場合があり、
埋められた場所の土の酸性の度合いが強いと、
(一部または全部が)溶けてなくなるそうです。
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遺物が出土した場所には、保護するためのビニールシートが、
掛けられています。
14
この辺りはかなり広範囲にシートが掛けられています。
左上の方に三脚が見えますが、この日テレビ局?が取材に来ていました。
15
調査員の方が、説明しているところです。

この方は、非常に気さくで説明が上手く、
話も面白くて思わず聞き入ってしまいました。

ここからは、江戸時代から弥生時代までの遺物が、
出土しているとの事です。
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発掘体験の様子です。

調査員の指示で、スコップで表面を少しづつ削っています。
甕棺か何か出土したのかはわかりませんが、
この辺りには、多くの甕棺が埋められているようなので、
見つかったのかもしれません。

しかも高い身分の人たちが葬られている墓地の可能性が高い、
という事なので、何か重要な物が見つかる事が期待されています。

つい先日、弥生時代の物ではないですが、
奈良時代の”権”(けん)という、
当時の役所で使われていた青銅の錘が出土しています。

当時ここに郡衙(ぐんが)という役所があったと言われていた事を、
裏付ける遺物らしいです。

現在資料館に展示されています。

ちなみにこのすぐ近くには、古代官道が通っていた事を示す、
丘を切り欠いた、切通しがあります。

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このバスは、公園内を巡回しているシャトルバスです。
公園はかなり広いので、このようなバスが主要な地点を回っています。

バスの先に見える柵の向こう側には、
歴代の王が眠る、北墳丘墓があります。
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ここが、北墳丘墓の入り口です。
20
内部には、発掘した当時の状態をそのまま復元して保存されています。
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ここの甕棺は、実物を貼り付けてあるそうです。
建物内は、気温と湿度を一定にしてあるため、
ややジメジメしたような感じがします。
22
王の甕棺だけに、銅剣やガラス製管玉など非常に貴重な副葬品が、
出ています。

いくつもの王の甕棺が、
このクニが数百年に渡って存続していた事を、
示しています。
23
外に出て、南の方を見ると、
大きな建物群が見えます。

吉野ヶ里で一番重要な北内郭の建物群です。
24
途中には、甕棺墓列があり、
一部埋葬の様子を再現してあります。
25
これは大人用の半分ほどの大きさしかない、
子供用の甕棺です。

子供用の小さな甕棺も多く出土していて、
当時子供の死亡率が高かった事が窺えます。

尤も、子供の死亡率が高かったのは、
ほんの数十年ほど前の医療が発達していなかった時代まで、
ずっと続いていましたが。
26
これは収穫した食物を蓄えておくための、
高床式の倉庫です。
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北内郭は、重要な区画のため壕と板塀で厳重に守られていたようです。
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ここに建っているのが、吉野ヶ里遺跡の象徴の一つ、
主祭殿です。
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弥生時代最大級の建物だと言われています。
建物の形は、いくつかの資料を基に再現されています。
29
建物は、16本もの太い柱で支えられています。
30
内部には、クニの各地から集まってきた要人達が、
王の前で収穫の時期を決める会議を開いている様子が、
リアルに再現されています。
31
その収穫の時期を占うのは、巫女の役割だったと、
考えられています。
34
発掘当時の写真を見ると、柱や壕の跡がはっきりとわかります。
35
吉野ヶ里遺跡と言えば、やはり数キロにもなる環濠ですね。
このように一部、降りる事ができる階段があります。
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かなり深く、落ちたらまず這い上がる事は出来ないでしょう。
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階段が無いと、出られません。
55
重要な箇所は、二重の壕になっている上に、
こんな尖った杭まで打ち込まれています。
56
逆茂木と呼ばれる杭です。
戦いを繰り返すうちに、
どんどん防御を高めていったのでしょうか。

クニが大きくなると、
隣のクニと対立する事になり、

最後は暴力となる・・。

ここの環壕を見ていると、
その始まりを思わずにはいられません。

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南内郭には、これも吉野ヶ里遺跡の象徴的な建物、
物見櫓が建っています。


40
同じエリア内には、身分が高い人の住居がいくつか再現されています。
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王の妻が機織りをしている様子が再現されています。
43
ほとんどの見学者が、物見櫓に登ります。
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吉野ヶ里の全盛期には、
海岸線がここから近い所にあったとの事なので、
海が見えていたのでしょうか?
45
この山の風景は、弥生人も同じように見ていたのかもしれません。
46
深い環壕と柵に囲まれているので、
吉野ケ里遺跡は、城にも分類されているようです。
(全国のお城紹介本にも載っています)
確かにここを攻めるのは容易ではなかったと思われます。
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近くの資料館には、どれだけ激しい戦いが繰り返されてきたのかを
物語る展示物があります。
49
この首無し遺体ですね。
首は戦利品として持ち帰られてしまったのでしょうか。

他にも矢じりが10個刺さっていた遺体も展示されています。

まさに魏志倭人伝の”倭国大乱”を思わせます。
48
これは王の甕棺に副葬してあった、
銅剣とガラス製の管玉です。

特にガラス製の管玉がこれだけまとまって発見されたのは、
例がないらしいです。
50
この建物内では、体験学習や、
土器の修復作業が行われています。
51
ここで土器の破片をパズルのように、
接着剤でつなぎ合わせる作業が行われています。
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修復された甕棺ですが、
バラバラの破片からここまで完成させるには、
かなりの根気と時間がかかりそうです。
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これは吉野ケ里歴史公園の全体模型です。
54
南のムラと名付けられた、一般の人?が住んでいたとされるエリアの、
復元の過程が説明されています。
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ここは東側にある公園のメインゲートです。
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遺跡エリアに行くには、こちらからが近いです。
このメインゲートには、お土産屋やレストランがあるので、
ちょっと紹介しておきます。
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これは吉野ヶ里のキャラ、「ひみか」「やよい」のクッキーと、
佐賀の定番和菓子です。
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北斗の拳とコラボした芋焼酎がありました。
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こちらも焼酎、「山の香」「むつごろう」「魔界」です。
62
上は、ちゃいこという名の逸口香(いっこっこう)と言う
佐賀のお菓子で、下は通称「あめがた」と言う佐賀の練り飴です。
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佐賀の銘菓「丸ぼうろ」の吉野ヶ里バージョン
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佐賀牛黒毛和牛カレー

65
佐賀牛煎餅
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「或る列車」で採用されたという、「吉野ヶ里のはちみつ」
71
これも佐賀の銘菓「小城羊羹」
68
佐賀と言えば焼き物という事で、
有田焼のマグカップ、コーヒーカップ類
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そして佐賀のソウルアイス「ブラックモンブラン」のチョコ。
67

レストランには、吉野ヶ里ならではの変わったメニューがあります。
「古代貝汁御膳1600円」「弥生鴨御膳1600円」
しかも弥生鴨御膳は、売り切れてます。
今までレストランなど行った事がなかったのですが、
ちょっと気になって来たので、その内食べてみようかと思っています。
72
吉野ケ里遺跡と言えば、
魏志倭人伝との関連がどうなのかが非常に気になります。
いったい倭人伝に出て来る30のクニのどのクニなのか?

倭人伝の邪馬台国の説明には、
楼閣と環濠があると書かれていますが、

それが見つかっているのは、
今のところ吉野ヶ里遺跡だけです。

邪馬台国論争は、まだまだ尽きる事はなさそうですが、
今回の発掘で、
論争に一石を投じるような発見がある事を期待しています。

神崎宿から東へ向かったところに、
長崎街道唯一という一里塚が残っているというので、
確認してきました。

ついでに櫛田宮から一里塚まで歩きながら、
街道の様子も見ていきます。
18
市街地を離れると、古い家屋がポツポツと残っています。
19
景観の整備などは全く行われていないですが、
なんとなく街道の雰囲気が残っています。
20
先に進んでいくと、こんなレンガの壁がありました。
21
この奥にあった建物は無くなっています。
一体どんな建物があったのか?
22
レンガの壁の隣には、こんな古い建物が残っています。
23
この辺りも、街道らしい風景です。
24
ここは何かの商店だったのだろうか?
25
左側は閉店していますが、右側は今もやっている判店でした。

27
いかにも昔からここで営業していそうな、菓子店です。
口コミによると、手ごろな価格の和菓子を多品目売っているようです。

29
しかし歩いていると、主要な道路の役目を終え、
”取り残された雰囲気”が漂っているのを、
ひしひしと感じてしまいます。

30
橋の上には、JRC(日本無線)の
監視装置らしきものが取り付けられています。
おそらく水位を監視していると思われます。

32
三本松橋の三本松とは、
このすぐ近くにある一里塚の松?なのでしょうか。
33
自動車整備工場かと思ったら、フィットネスジムでした。
最近ジムがあちこちに出来ていますね。
34
左側に一里塚が見えてきました。
35
ここが「ひのはしら一里塚」です。
36
江戸時代初期に徳川家康の命により、
街道の一里毎に設置されたとの事で、
長崎街道に残っているのは、ここだけらしいです。

37
高さ4メートルほどの小山で、
周りは石垣なっている堅固な作りです。
38
階段で上に上ると、佐賀県遺産の認定証があり、
ここに”ひのはしら”の由来が書いてありました。

それによると、櫛田宮の緋色(赤色)の鳥居が立っていた事から、
”ひのはしら”と呼ばれるようになったとの事です。
39
隣の祠から、仏像が見守っています。
40
なかなか見晴らしはいいです。

42
あらためて塚の周りを見てみます。
まるで城の石垣のようです。

しかしよく見ると、石の積み方に違いがあります。
43
これは江戸時代初期の”切り込みハギ”と言う、
石の形を揃えて積み上げる手法のようですが、
この部分は、乱雑に積む”乱積み”で、
42a
ここはキレイに並べる”布積み”となっています。

なぜ途中で積み方を変えてあるのか?
積んだ担当者(地区)が変わったのか?
それとも何か強度的な問題が生じて変えたのか?

気になります。
44
ここにはバス停と、見学者用のクルマ数台分の駐車場もあります。
45
ここから先は、田んぼが広がっています。
江戸時代から変わらない光景かもしれません。

ひのはしら一里塚、地味ながら見所のある史跡でした。

現在長崎街道佐賀宿東の入口が、
牛嶋構口公園として整備されていますが、
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そこから西の方へ200メートルほどの所の、
紺屋川に掛かる思案橋の横で船着き場跡が見つかり、
このほど公園化整備が完了しています。
02
奥に向かって東の入口(構口)となります。
01
このように案内板も備えた小さな公園となっています。


03
石垣や階段は、江戸時代の物とのことです。
当時はもっと水量が多かったらしくて、
ここから船で運ばれてきた物資が荷揚げされていたようです。
05
設置されている案内板には船着き場や街道の様子が、
非常に詳しく説明されています。
06
右が江戸時代、左が現代の地図です。
07
案内板によると、思案橋を渡ってすぐの所には、
江戸時代から「橋口屋」という、
名物うどん屋があったそうですが、
戦時中の昭和18年8月に物資不足で閉店となってます。

うどん屋もできないほど物資が窮乏するとは、
どんな状況なのか?
ちょっと想像できないです。
08
写真は昭和39年に撮影されているので、
その頃まで建物は、存在していたようです。

今SNSで広がるように、当時は旅人の口コミで、
佐賀宿に旨いうどんが食べられるうどん屋がある、
とか広まったのでしょうか。

おそらく写真が撮影された頃の長崎街道界隈は、
まだかなり江戸時代の景色が色濃く残っていたと思われます。
09
この蔦屋は、昭和39年時点でも蔦屋商店として営業していたようです。

女性が引くリヤカーには、花が積んであるように見えますが、
どうでしょうか。
もしかしたらかごの中には子供がいるのでは?

こんな風に子供を連れて行商している人が
いた話を聞いたことがあります。

リヤカーを引く光景というのも今では見られないので、
貴重な記録写真です。
10
これは発掘調査時の遺構の写真と遺構図です。
思案橋遺跡「荷揚げ場遺構」という名称になっています。
11
このように、はっきりと石垣と石段が残っています。
12
荷揚げ場のイメージ図です。
明治以降に3分の一ほど埋め立てられているようなので、
江戸時代には、今よりかなり川幅が広かった事がわかります。

13
現在の紺屋川を見ると、とても船が行き来できるようには思えませんが、
当時は川幅が広く、水量も多かったという事ですね。
14
この石段の側まで川幅があったようです。
15
石垣は、本当によく残っています。
16
ここからどんな物が荷揚げされていたのでしょうか。





19
規模は小さいながら、ほぼ完全な形で残っている貴重な遺構です。
20
この思案橋の付近には、遊郭があったらしいです。
21
そんな遊郭を彷彿とさせる建物が近くにありました。
かなり古そうな建物ですが、江戸時代からあったのかは不明です。
23
この牛嶋公民館の建物もかなり古そうです。
06
佐賀宿は本当に大きくて、
東の端から西の端まで長さ6キロくらいあり、
見学しながら歩くと3時間くらいかかるほどです。
(丹念に見学すると4時間以上とかかかる)

この地図の範囲、東の入口構口から旧古賀銀行まででも、
江戸時代の街並みを再現できれば、
歴史的街並みとしての遺産となり、
かなりの観光名所にもなりそうだとは思いますが、
もう今からでは無理でしょうか。

むしろこれから取り組むことかもしれません。

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