SAGA佐賀マニア~佐賀のマニアックな情報発掘

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カテゴリ: 佐賀情報

以前アジアのハリウッド構想のセミナーに参加した事を、
記事に上げていました。


あれは2006年~7年でしたが、
いつの間にかフェードアウトして消えてしまいました。

ところがその前の2002年、佐賀に巨大な映画の撮影所を作り、

アジアのハリウッドを目指そうという佐賀新聞の記事が、
ありました。
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クリークアンドリバー社の社長井川氏が、
韓国にあるソウル映画センターという、
大規模な映画スタジオを見学後、打ち出した構想です。
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この構想があったから、2006年に実際に動き出したのだと思われます。
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井川氏は、韓国が国を挙げてエンタメ産業に力を入れている姿に、
感銘を受けて日本にもそれも佐賀に、

映画製作センターを作ることを構想していたようです。

その理由は、佐賀はアジアから見れば中心にあり、

ソウル・上海・北京・大阪・東京とのアクセスも良いので、
嘉瀬川の敷地に江戸時代の街並みやお城を、
復元して京都の太秦のような映画村にする。

そしてそのキャッチフレーズは、

「時代劇は葉隠れの里で」

というものでした。

それから22年、日本の産業構造も変わる中で、
これからの日本の経済の柱となるのは、

コンテンツ産業とインバウンドを含む観光産業だとすれば、
時代が追い付いて来たのかもしれません。

新聞記事を読んでいて、今ならもう一度、

本気でアジアのハリウッド構想を佐賀で実現することを、
考えてもいいような気がしました。

今や絶滅寸前となったア〇ルト自販機小屋の、
こっそり堂を定期的に調査していますが、
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なんと名称が変わっていました。


その名は、

「大人遊具研究所ADULT TOY LAB.」
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運営が変わって名称が変わったようですが、
「こっそり堂」はそのまま引き継いで欲しかったような・・

しかしまだ存続していただけでも、ヨシとしなければいけませんね。


さっそく中に入ってみます。
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中はゴミも落ちてなくてキレイです。
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新札対応は出来ていませんでした。

最近新札を見る事が増えてきたので、
これは早急に対応させる必要があるかもしれません。

そう言えば、以前の運営者が撤退しようとした理由(の一つ)が、
新札対応が難しいという事でしたが、

新しい運営者は、対応させるのでしょうか。
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当然ですが運転免許証で年齢確認しないと、買えないようになってます。
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商品はDVDより器具系?(いわゆる大人のおもちゃ)が、
多いようです。
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使い心地についての説明w
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全体の8割くらいはおもちゃ関連のようです。10
裏側の出口です。
内部は掃除が行き届いて快適?でした。
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清潔に保とうという意識は強いようです。

とりあえずここはまだしばらくは、存続していくような気がしました。
しかし新札対応が遅れると、お客さんの足が遠のくような?

またその内確認しに来ようと思います。


佐賀玉屋本店の建物が建て直されることになり、
8月18日で現ビルでの営業が終了しました。
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最終営業日前日の8月17日に、店内の様子を見に行ってきました。
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1965年(昭和40年)12月1日にオープンしています。
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そして運営が変わり、建て替えられることになりました。
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本当に何年振りだろうと言うくらい久しぶりに中に入ります。
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当時からずっと動き続けているエスカレーターです。
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婦人服売り場です。
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紳士服売り場は、すでに商品が撤去されていました。
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今見ると、それほど広くはない空間が広がっています。
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最上階へ上がります。
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最上階でイベントをやっていたからです。
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多くの人達が思い出作りにやって来ていました。
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かつて屋上にあった、小さな遊園地を再現したコーナーです。
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当時のように子供が乗り物に乗って遊んでいました。

屋上にはゲームコーナーもあって、
親に連れて行ってもらった時は、
いつもゲームコーナーで待っていたのを思い出します。
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メッセージボードは多くの言葉で埋まっていました。
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これは案内係の歴代制服です。

入り口から入ってすぐの所に、
こんな制服を着た女性がいたのを覚えています。
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こちらは花形のカードに書かれたメッセージが、
たくさん貼られています。
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玉屋への思い入れが込められたメッセージで溢れていました。
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ゾンビランドサガRのメッセージパネル。
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創業者田中丸善蔵の銅像。
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大きな鉄道ジオラマまで設置してありました。

パネルには昔の新聞記事が時系列で貼ってありました。
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昭和8年の新聞記事
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昭和8年の年末商戦の記事。
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昭和9年春の商戦記事。
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昭和9年7月のお中元広告。
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昭和9年11月の広告。
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昭和10年頃のバーゲン品価格。
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昭和28年12月の配達地域。
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昭和32年1月の冬物衣料の価格。
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昭和40年12月1日、前日の内覧会を報じた記事。
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12月1日の開店時には4万人が押し寄せたらしい。
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オープンを知らせる広告。
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昭和41年10月28日、160年記念祭の広告。
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その頃の商品価格。
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昭和49年10月3日、タマヤ家具サロンオープンの広告。

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昭和55年7月2日、玉屋新館オープンの記事。
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新館オープン時に3万人が押し寄せ売り上げ2億円。
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日裕やダイエー、ユニード、西友、南里の店長や部長の採点。
今はどこも残ってないですね。
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昭和55年7月の広告。
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平成8年5月23日には、サッチャー元首相が来店されています。
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平成10年7月24日空港ショップオープンの広告。
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平成11年10月22日、兵庫ショップオープンの記事。
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降りる時は、階段を使うことにします。
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階段を降りていると、建物の古さを感じます。
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ついでに通称”玉ちか”と呼ばれる、
デパ地下へ行ってみます。
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そう言えば、
たしか玉屋の饅頭を作っている機械があって、

流れ作業のように饅頭が出来ている所を
見ていたのを思い出しましたが、

あれはいつまであったのか?
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一回りしましたが、
デパートらしい品格のような雰囲気は感じても、

今の他店舗の売り場と比べると、
古くなった感は否めません。
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この姿も見納めかと思うと、やはり寂しさを感じます。


つい先日、あの去年閉店した、
ア〇ルト自販機小屋”こっそり堂”の前を通りがかった時、



なんと”オープン”と言う文字が目に飛び込み、
慌てて停車。
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本当にオープンしているのか?
しかもアイテム増加!
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本日再開とはいつの事なのか?
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本当に再開したのか?
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閉店した自販機小屋が復活することなどあるのだろうか?
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中を確認してみます。
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本当に自販機が稼働しています。
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DVDよりおもちゃ系?が多い感じです。
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新札に対応させるのが難しいのが、
閉店する理由の一つだったハズ。

まだ新札が出てないので、
当然対応してないでしょう。

しばらくは旧札の方が多く流通しているから、
大丈夫という事でしょうか。
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奥の部屋にも入ってみます。
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まあ、変わりは無いですね。
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一番端の自販機は使われていませんでした。
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この空のケースは、買った人が中身だけ出して、
捨てていったものでしょうか。
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”こっそり堂”と言う看板が無い事から、

もしかしたら別の経営者に、
引き継がれたのかもしれません。

しかしいったん閉店した自販機小屋が復活するとは、
驚きました。

減る一方だと思っていたのに、
再開するとは・・

ここの売り上げが良かったのでしょうか。

それでもこの販売スタイルで、
いつまで営業できるのか?

ここは定期的に確認していこうと思います。

神崎宿から東へ向かったところに、
長崎街道唯一という一里塚が残っているというので、
確認してきました。

ついでに櫛田宮から一里塚まで歩きながら、
街道の様子も見ていきます。
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市街地を離れると、古い家屋がポツポツと残っています。
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景観の整備などは全く行われていないですが、
なんとなく街道の雰囲気が残っています。
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先に進んでいくと、こんなレンガの壁がありました。
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この奥にあった建物は無くなっています。
一体どんな建物があったのか?
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レンガの壁の隣には、こんな古い建物が残っています。
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この辺りも、街道らしい風景です。
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ここは何かの商店だったのだろうか?
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左側は閉店していますが、右側は今もやっている判店でした。

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いかにも昔からここで営業していそうな、菓子店です。
口コミによると、手ごろな価格の和菓子を多品目売っているようです。

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しかし歩いていると、主要な道路の役目を終え、
”取り残された雰囲気”が漂っているのを、
ひしひしと感じてしまいます。

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橋の上には、JRC(日本無線)の
監視装置らしきものが取り付けられています。
おそらく水位を監視していると思われます。

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三本松橋の三本松とは、
このすぐ近くにある一里塚の松?なのでしょうか。
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自動車整備工場かと思ったら、フィットネスジムでした。
最近ジムがあちこちに出来ていますね。
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左側に一里塚が見えてきました。
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ここが「ひのはしら一里塚」です。
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江戸時代初期に徳川家康の命により、
街道の一里毎に設置されたとの事で、
長崎街道に残っているのは、ここだけらしいです。

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高さ4メートルほどの小山で、
周りは石垣なっている堅固な作りです。
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階段で上に上ると、佐賀県遺産の認定証があり、
ここに”ひのはしら”の由来が書いてありました。

それによると、櫛田宮の緋色(赤色)の鳥居が立っていた事から、
”ひのはしら”と呼ばれるようになったとの事です。
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隣の祠から、仏像が見守っています。
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なかなか見晴らしはいいです。

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あらためて塚の周りを見てみます。
まるで城の石垣のようです。

しかしよく見ると、石の積み方に違いがあります。
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これは江戸時代初期の”切り込みハギ”と言う、
石の形を揃えて積み上げる手法のようですが、
この部分は、乱雑に積む”乱積み”で、
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ここはキレイに並べる”布積み”となっています。

なぜ途中で積み方を変えてあるのか?
積んだ担当者(地区)が変わったのか?
それとも何か強度的な問題が生じて変えたのか?

気になります。
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ここにはバス停と、見学者用のクルマ数台分の駐車場もあります。
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ここから先は、田んぼが広がっています。
江戸時代から変わらない光景かもしれません。

ひのはしら一里塚、地味ながら見所のある史跡でした。

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